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第5回 八幡太郎の日本史の時間「12月の歴史的出来事『赤穂浪士の討ち入り』」

 

皆さん、こんにちは。第5回目は少し感じを変えて、その月の過去の出来事について述べていきたいと思います。不定期に行いますので毎月という訳ではないことをご了承ください。

 

さて、12月で思い浮かぶ歴史的出来事と言えば、「12月8日の真珠湾攻撃」「12月14日の吉良邸への赤穂浪士討ち入り」の2つが皆さんにも思い浮かぶのではないでしょうか。特に「赤穂浪士の討ち入り」は毎年この時期になると、テレビや雑誌で特集が組まれたりしますので皆さんにも馴染み深いかと思います。

 

赤穂浪士の討ち入りの内容については今回省略させていただきますが、関連した疑問として吉良邸に討ち入りをし、切腹した浪士の人数が46士だったのは何故?菩提寺である泉岳寺には48基のお墓があるのは何故?という話もあります。因みに実際に討ち入りした浪士は47士で、討ち入り完了後に大石内蔵助の指示により関係者へ結果を伝えるために抜けた人物がいます。その人物は吉田忠左衛門の家臣で寺坂吉右衛門と言います。その為、事件後の各藩へお預けになった人数は46士になります。また泉岳寺にあるお墓はこの寺坂と家族や親類に反対され、討ち入り前に自害した萱野三平を加えた48士になります。

 

今回取り上げるのは、「不忠者」と討ち入り後に世間から言われていた「大野九郎兵衛」についてです。この人物については皆さんも余り知らないのではないかと思います。どうしてこの人物を取り上げるかは、「不忠者」と呼ばれているのが政治的な作為が働いているのではないかと考えているからです。

 

大野九郎兵衛は「松の廊下での刃傷事件」の時は赤穂藩・末席家老という高い地位に居ました。主に勝手掛(勘定方)を担当し、藩の財政を担っていました。そんな大野(開城派)ですが、赤穂城受け渡しの際に筆頭家老・大石(籠城)派と対立し、更に分配金の配分では大石が微禄の者に手厚く配分すべきに対して、石高に応じて配分すべきと主張してここでも対立しています。この一連の主張の為に逐電(逃亡)しています。この逐電が赤穂浪士の討ち入りを美談にするために過大に脚色され、大野が「不忠者」になってしまったのでないかと私は推察しています。

 

ただ、この大野と大石はお互いを認め合う間柄で、逐電した大野の家財一式を大野宛に送っていたり、大野は大石らの討ち入りのための費用を用意していたと言う話があります。更に、大石らの討ち入りが失敗した時を考え、吉良が実子の出羽米沢藩・上杉綱憲の所領へ落ち延びた際に備え、山形県の板谷峠にて木こりに扮して潜伏していたという伝承もあり、討ち入り成功を聞いて歓喜し、その場で自害したと言われています。

 

討ち入りをした浪士個々のエピソードも感動しますが、大野のような影に隠れたエピソードも胸が熱くなります。

 

続く